彼女と、彼女の言葉と、悲しみ。
心の悲しみ。
それは精神的にでもあり、もしくは身体的な症状に現れる時、わたしは彼女の言葉を必要としていた。
彼女の言葉には、生後3か月くらいの子犬がよちよち歩く様をみているときのように、胸をあたたかくさせる何かがあった。
それは、彼女が自分に素直で、真面目であったから紡ぎだせた言葉だった。
彼女は、途方もなく暗い道をマッチから放出される、灯りとはいえない火の塊一つに縋りながら、火の塊が消えないよう片方の手で塊を守りながら、下を向きながら慎重に歩き、マッチが短くなり手に熱さが伝わる寸前までしっかり持って、だけどやがて耐え切れず手を放し、暗闇に自分が同化しないように震える手でもう一度マッチに火の塊を宿すような、そんな作業を繰り返していくことでようやく進むことができるような、ひとりの人間であった。彼女の言葉には苦しい毎日を生き抜くことの辛さが滲み出ていた。
だからこそ、彼女の言葉は人々を共感させ、奮い立たせるメッセージが(彼女が意図せずとも)、こもっていた。
わたしも類に紛れず、彼女の言葉を必要としていたから、彼女と出会い、彼女が吐き出す思いに寄りかかり、そのたびに安堵し、安心して眠りについた。
わたしだけではない。
そう思えた。
わたしは自分の悲しみに気が付いてしまった時、なんて愚かで情けないんだろうと自虐の思いに耽る。
この世界には、とか、日本には、とか規模を拡大して自分の悩みを飛躍させ、比較し、わたし以上に苦しい環境に置かれている人を思ってしまう。
この感情は、とてもズルい。
これはわたしの悲しみに対する暴力だ。
わたしはわたしに対して、わたしの素直な感情を殴り続けている。
その点、彼女の言葉はとてもクリアだった。
彼女が悲しみを語る時、それは誰の事も考えていない。
彼女の悲しみを彼女が一番に寄り添い、言葉として的確に放出することができた。
わたしは自分の感情を素直に声や文章にすることは容易ではないように感じているから、彼女のそれがかなり自然となされていることにいつも驚き、尊敬し、だが共感し、もたれかかってしまうのである。
しかし、それは永遠であった。
彼女は自分に素直で正直な分、自分を覆いつくす悲しみにしか興味がないように感じ取れた。
というか、悲しみしか叙述していなかった。
彼女はいつも悲しみの渦の中にいて、それをみていると、みているこっちまで悲しみの渦に巻き込まれていく。
だから、彼女の周りにはいつも悲しみを纏った人たちがたかり、わたしも「悲しみを纏った人」となる。
悲しみが中心となり、悲しみを共有し、悲しみを抱えて、悲しみが安心材料となって、皆眠る。彼女を除いて。
彼女は今、何をしているのだろう。
そして何を思い、悲しみとどう向き合っているのだろう。
いつまで、悲しみを語っていくのだろう。
2022.03.13
三賀正気