9×9=81

気持ちが苦しい時、9×9=81と心の中で唱えるのが癖です。日々の思いを綴ります。

失敗か成功かなんて考える余地はない。

 

 人生まだまだこれからだ、と思い続けていたが、そうではないらしい。

学生の頃、授業などであてられたとき、いつも正しい答えを言わなければいけないと思っていた。つまり、失敗することは”悪”だと考えていた。

なぜなら、当時のテレビ番組では所謂”おバカ”タレントがクイズに答える番組が流行っていて、彼らが間違った答えを発すると周りが爆笑するといった状況が日々テレビから流れていた時代だった。

そんなものを毎日みていたら、間違うことは笑われて、ダメなことなんだと思うにきまっている。

だけど、今あの時を振り返ったら、間違うことにビクビクしていて、正しい答えばかりに気を取られ過ぎていたと感じる。失敗することは悪いことではないし、恥ずかしいことではなかった。しかし、そのようなことを助言してくれる大人は、私の周りにはいなかった。もう少し間違うことに堂々とできていたら、と考えずにはいられないが、今更どうすることもできない。

昨今は、高学歴タレント?たちがクイズ番組で活躍する番組が流れている。これをみて今の子たちはどう思うのだろうか。

 

今日も頑張って生きた、と思うだけで精一杯なのに、そこに失敗か成功かの選択が入りこむ余地はない。

未来は暗い。生活は豊かにならない。

そう思っている時点で私の選択は、失敗だったのだろうか。いや、そう思えることは案外、成功なのかもしれない。

そう思わないとやってられない。

 

 

 

2022.9.20

三賀正気

 

 

吹き荒れる。

 

いつも何を考えているのかわからない、としばしば言われる。しかし、そう言われてもさして何かを考えているわけではないから、毎回どういう表情をすればいいのか戸惑う。

その時に気付く。いつも何を考えているのかわからない人は、本当は何も考えていないのだ、と。

 

社会が壊れてきている。皆が皆、己ではなく他者に注目し、批判だらけだ。こんな世の中で表に立つ仕事をすることは、本当に大変だよなと思う。

私は、本当に整った人生を歩んでいるわけではないから、彼らの事を他人事にできない。面白おかしく非難できない。心の内で思うだけだ。

 

好きなことに一生懸命な人になりたい。それを仕事にしたいわけではなく、ただ単に好きなことに一生懸命になりたいのだ。

思い返せば、いつも何かに急かされて焦って悩んで生きてきたつもりだけれど、何かに一生懸命になった記憶がなかった。

部活だって勉強だって趣味だって、これといって燃えるような、衝動に駆られるような思いをしたことってあっただろうか。

今からでも遅くないだろうか。

ひとあたり気になるものを手に取って、回を重ねていけば、出会えるだろうか。

そんなことを考えながら、今日も私はスマホを手に取り、赤の他人が発信するつぶやきに笑い、癒され、怒り、そして嫉妬する。

 

 

 

 

2022.09.07

三賀正気

 

 

 

 

 

踊って終って、踊って始める。

 

 暗い気持ちのときにしか、文を綴ろうと思わないのは、それは私が、綴ることを一種のセラピーみたく捉えていて、ストレス発散にしているからなのだろうか。

気持ちが安定しているときは、何かを発散するのではなく、自己の内に留めておきたいと無意識に思っているからなのだろう。

 

 最近は、気付くことも多いけれどその分、自分がどれだけ誤った考え方や見方をしていたのかを実感する。私はそれを楽しいと思っていて、こういうことの繰り返しなんだろうなと思う。

 

 十代のまだ青々していたときに通用していたものが、だんだんと年を重ねるにつれて、規制されていき、もうそれじゃあ通用しないよな、と思うことが増える。人見知りとかが典型的なそれだ。ってか私は人見知りではない。がんばっても応えてくれないことの方が多いから、私はただ単に嫌われているだけなのだろう。映画のナルニア国物語2のヲタクっぽい男の子が女の子に話しかけている所なんか見てられない。私をみているようだし、二次被害的に傷付くから。だけど、それをこんなもんだよな、ですまさないといけない年齢になってしまった。こうやってみんな大人になっているのかもな、と思うし、案外大人って子供だよな、と最近考える。

 

 作者が女の人の小説しか読めなくなってきている。これはなぜか。気づいたら女の人だし、男の人が書いた作品は直近だと、「桐島、部活病めるってよ」しか記憶にない。

そのほかはなぜか手が止まったり、一ページ読むのに30分とかかかってしまうくらい、スピードが遅くなる。理由はわかっているはずだけど、なんとなくそれに気づきたくなくて、蓋をする。

 

 死は重いものだと痛感してはいるつもりだけれど、体験したことがないからか、「ちょっと死んでしみようかな」なんてありえないことを考えてしまう夜がある。そんなことは絶対にできないはずだけど。安易だな、とつくづく思うのだけれど。

 あたらしいとしだ。

 

 

 

「踊って終って、踊って始める」

 

 絶対1カ月もしないうちに忘れてしまうはずだけれど、スローガンをたてておく。

生きる希望と向き合うために。

 

 

 

 

 

2022.6.14

三賀正気

 

 

 

 

ゴミとゴミ箱と自己中。

案外、悩みを他人に聞いてもらうと楽になる。

そう気づいたのは、ここ最近である。

抱えていると、悪い方向にしか考えが進まない。

 

だけど、なにかの映画でみた場面が忘れられない。

いつも誰かの愚痴を聞き続ける人に対して主人公が、「あんたってみんなのゴミ箱みたいだよね。」と言われていたところを。

そのとき、そうか、愚痴や悩みは他者にとっては「ゴミ」同然で、それを聞かされている人は「ゴミ箱」なのか、としっくりきてしまった自分がいた。

そこから、誰かに話してわかってもらうことよりも自分の中で消化しようと努めるようになった。

それは自滅にも等しい行動だ、とわかっていても、自分の中でいつの間にか習慣になっていたから、どうしようもなかった。

 

そうしたら、だんだんと周りの人たちと何を話せばよいのかわからなくなって、だまりがちになった。

他者にとって、私の評価は総じて「まじめ」で「静かな」人だった。

だけど、私は肩がぶつかってしまったとき(故意ではなく)嫌な顔をしてしまうし、パン屋でパンを選んでいる人がマスクをしないで話しながらパンを取っていたら、何なの?みたいな顔をしてしまう。

これらは全然、「まじめ」で「静か」ではないと思う。

私は、腹黒くて自己中なやつなのだ。

 

そう考える。

そう考えてしまう。

いつだって私は、自分の悩みに対しては寛容なのだ、と気付く。

 

 

 

2022/5/19

三賀正気

 

 

 

 

 

 

進んでも、止まっても、悩みは尽きず、待っているのは絶望だ。

 

わたしは、自分の思いを口にすることが苦手だ。

どうしても厳しく、激しい口調になってしまい、相手を傷つけてしまう。

これを言ったら、絶対に傷つけてしまう、と予感していても、いつの間にかするっと出てきてしまって、予想通り相手を傷つけてしまって、絶望する。

 

自分が苦しいとき、限界まで頑張るのが辛い時、やっぱりここまで頑張っている人がいるから私も頑張らなくちゃ、といった思考に陥ってしまうことは地獄だ。

知らぬ間に黒い沼にはまり、抜け出すのに時間がかかる。そして抜け出したとて、ずっとそこにいるとまたはまっていくだけだから、上がるという作業が付随する。

おちると、ぬけだすのに苦労する。

 

そう思って、自分の中で基準を決めて、ここまで来たら無理をしない、頑張らないと決めても、なんだかぬるま湯につかっているようで気が気でない。

きっと、みんなは、私は、自分に甘い奴だと感じるのだ。

 

進んでも、止まっても、悩みは尽きず、待っているのは絶望だ。

こんな気持ち、誰とも分かり合えないだろうという中二病的な気持ちと、きっとみんなこんな感じで生きてんだろなという気持ちが、混ざり合う。

 

Age FactoryのFeel like shit todayを聴く。こんな気分もいつかは忘れていくのだろうか、この曲を聴いていると、何か浄化される気分を味わう。

 

大丈夫、と自分を抑えていても、どうにも抑えきれず、「しんどい」と独り言を言っている時がある。

辛さが極限になったとき、天国にいるあの子のことを思う。自らの意志で天国に行ったわけではないあの子のことを想像する。

だけど、やっぱり。

 

みんな今日を忘れていくのだろうか。

「僕ら忘れていく 何もないから」

 

 

 

 

2022.5.13

三賀正気

 

 

 

 

 

私にとっては「本当に」辛いこと。

 

本当に辛いと思っていても、ふとそのことについて考えてしまうし、向き合っている自分がいる。

逃げたくて、逃げたくて、逃げたくてたまらないのに椅子に座り、机に向かっている自分がいる。

投げ出したくて、そっぽを向いておこうと思っていても、頭の片隅にそのことがこびりついて離れない。

辛くて、逃げたくて、投げ出したくても、涙が出る時もあれば、大笑いしている時もある。

楽しいと感じる瞬間に、それは「本当に」辛くて、逃げたくて、投げ出したいことなのか、と疑問が浮かぶ。

けれど、私の辛さは私の尺度でしか図れない。

私のことは私しかわからないのだから、私が辛いのだったらそれは「本当に」辛いことなのだ。

 

 

 

 

数学が苦手だ。

わからない問題に出会うと、気付いたら30分くらい考え込んでいる時がある。解説をみながらも考え続ける。

それが、すっきりわかったとき、その爽快さで数学が好きになる人もいるだろうけど、私からすると霧だらけの迷路をさまよい続け、やっと正解という名のゴールに辿り着くわけだから、ゴールに辿り着けたという安堵やもう二度と迷いたくない、という思いになる。

数学が得意な人には理解できないだろう。

 

 

 

 

「したいことがあるからしない人」と「したくないからしない人」。

両者は似ているようで全く違うな、と今日、何かをしている時に気付いた。

前者はなんかカッコいい。

後者は甘えているという印象を受ける(偏見だ)。

私は圧倒的に後者、と認めてしまうと甘えていることになるから、断言するのには躊躇する。

 

 

 

 

 

最近、映画館で映画を観れない。美術館で絵画をみれない。レンタルビデオ屋で何を借りようかワクワクしながら回れない。本屋で好きな作家の新刊が出てるかチェックできない。

したいけれど、できない。

できることなのに、できない。

 

 

 

 

明日は自分のノルマを達成できるだろうか。

今日も私の文章は暗い。

 

 

 

 

 

2022.04.15

三賀正気

 

 

 

苦労を知らず、考え続ける。

なにもできていない。

スピードについてけない。

皆はちゃんとできていることが私はできない。

そんなことを考えてしまう夜。

 

あの子は夢を叶えたし、あの子は留学に行った。

あの子はこの現状にウキウキしているし、あの子は楽々すり抜ける。

 

私は苦労をしらないのかもしれない。

彼らの努力を、見えない努力を通り越した結果だけに注力し、羨ましいとほざき、私はなんてダメなんだと自問自答する。

私は私のダメな出来損ないな部分にばかりみていて、一日を終えてしまう。

もったいないと我ながら思うけれど、気が付いたら夜で、気が付いたら朝で、気が付いたら月曜日なのだ。

 

苦労を経験した方がいいとなんとなく思っている私は、やっぱり苦労を知らない。

苦労を知らないと味のある大人になれないから、やっぱり苦労は大切なのかもしれない。

楽なことばっかり選んでいて、そのうち罰が当たりそうな気がする。何も罪のようなことは犯していないはずだけれど、なんだか罪悪感で胸がいっぱいになる。

 

人間は自分の好きなことをやっている時が一番集中でき、脳が働くと誰かが言っていた。顔は思い出せるけれど、名前は思い出せない。たしか関西弁で話していったけか。

でも、自分の好きなことで必ずしも皆食べていけるわけではないから、皆それに近しいこととか全く関係ないことを仕事にしているのか。

 

いつの記憶かはわからないけれど、宮崎駿が「やりたいことではなくできることをするべきだ」的なことを言っていたことを思い出した。

残酷な言葉だ。

私はそれを踏まえたとき、なにがやりたくて、なにができることなのだろう。

 

考えすぎだとよく言われるし、そうなんだろうなと思うけれど、実際私は妄想で何かを補填しながら生きているから、やめることなんて不可能なんだと思うけれど、考えないで行動に移すことができたら悩みなんて吹っ飛んでいきそうだなと、考えたりする。

考えることにもはや憑りつかれているとしか思いない。とまた考える。

 

皆それぞれ不幸だが、私は私の事しか考えてるにすぎないから、これは不幸には値しない。私から発生し、誰に迷惑をかけることがない悩み。親には心配をかけてるということになるのだったら、それはもはや私だけの悩みではないのか。

わからなくなっていきたので、考えるのはここら辺にしてもう眠る。

生活パターンが完全にくるってしまっている今日この頃。

何とか朝にバリバリと行動できるようになりたい。多分永遠の目標。

 

あ、あと最近は日本語で歌われている音楽が聴くのが煩わしいと感じるようになった。

英語がわからなくてよかったと思いながら、アメリカの音楽を聴く。

たまにハッピーとかファッキンとかラブとかは変換されるけれど、全然大丈夫。多分それらの単語はキャッチ―過ぎなんだと思う。

 

明日は頑張れるかな。

 

 

 

 

2022.04.10

三賀正気