9×9=81

気持ちが苦しい時、9×9=81と心の中で唱えるのが癖です。日々の思いを綴ります。

ただわたしだけがキラキラにみえるだけ。

好きなことをして生きていくのは難しい。

そう気づいたのは、20歳を超えてからだと思う。

それまではキラキラしたものしか見えていなかったから、不穏で冷たい現実に目がいかなかった。

だけど、なんか急にハッとなって、明日になるのが怖くなって、未来よりも過去に縋りついていることに気づく。

何もかもを手放したくなる。

これが大人になるということなのだとしたら、随分寂しいなと今、思った。

 

わたしが夢に見ていた生活をしている人たちは本当に一握りだと気づく。

キラキラした生活を送っている人の陰には、暗く、目をそむけたくなるような現実を送っている人がいる。

だけど、キラキラした生活を送っている人も、実は、そう見えているだけなのかもしれない。

だけど、だけど、そう思えない自分もいて、黒いものがこころを襲う。

 

皆、何かに悩んでいて、それぞれなんかしか不幸があるのに、いつもそれに気づくことができるのは、お腹がいっぱいでこころが安定している時だけだ。

こころが寂しいと、考えも極端になる。

それだけは避けたいけれど、人間に寂しさは付き物。

幸せの絶頂期に至って、いつしか寂しさが我々を覆う。

あんなに幸せだったのに、ってこころの中で呟く。

幸せと寂しさの波が交互にやってきて、それをうまく扱うようになることが生き抜くコツなのかもしれない。

そんなのわかってたって、できやしないけど。

 

皆、幸せになろう。

そして、寂しさがやってきたら、寂しさがやってきたら、そのときはそのときだ!

直感は案外大事なのかもしれない。

 

 

 

2022.04.05 

三賀正気

 

 

映画人と情熱大陸と私。

 

今日は、todoリストを作って行動しようと思ったけれど、ほとんど達成できずに終わった。

最近は達成できなくても、それはそれでいっか~と考えてしまっている。

もっと自分を律しないとだめだよなと思いつつ、私は自分に甘いままだ。

 

実家に帰ってきていて、溜まっていた録画から藤井道人が出演している情熱大陸を選んでみた。

40くらいかと思っていたけれど、意外と若くて驚いた。そして、もっと若い時に栄えある賞も取っていた。

映画が好きな人はこの世にごまんといるだろうけれど、彼のような映画人になれた人は本当に一握りだと思う。

私も類に紛れず、映画が大好きだけれどだからといって皆が知らない映画ばかりみているわけではないし、古すぎる映画は観たいと思わない。その時点で映画人に向いていないのだと思うけれど、私も彼の様な職業を目指していた過去がある。

しかし、映画人になるにはコミュニケーションが大事と耳にして、秒で諦めた。

番組に映る彼は、いろんな人とコミュニケーションを取っていて、上手くやってた(見えないところの苦労も半端ないのだと思うけど)。

そしてやっぱり私には向いてなかったのだなと思った。

私は映画に仕事としてではなく、趣味として関わっている方が好きなのだなと前々からうすうす感づいていたことに、改めて向き合った。

西加奈子の『夜が明ける』を読んでいると、とてもとても映像の世界に飛び込むことは恐ろしいことだと感じる。

主人公のように夢を諦めざるを得なかった人はどれだけいるんだろう。

一瞬掴んだけれど、秒でするりと手からはみ出ていく。

彼は、こういう現実を上手く交わしてすり抜けたのだろうか。

それとも、主人公のように耐えて、耐えて、耐えた結果なのだろうか。

 

情熱大陸、前までめっちゃ素敵!と思ってみていたけど、最近は「天才」の醸成器としての役割感がするな、と思ってきた。

登場人物たちと年齢が近づくにつれての嫉妬だと思うが・・・。

 

 

2022.04.01

三賀正気

 

みんなそれぞれ考えている。

 

今日は、映画『アジョシ』(2010)をみた。

私はやはりノアール映画が好きだ、と思った。

でも、やっぱりいつまでも頭から離れないのは『コインロッカーの女』(2015)と『イノセント・ガーデン』(2013)だ。哀愁を纏った主人公にはなぜか憧れがある。

 

 

 

最近、自分らしさを表現することがどれだけ難しいのか実感している。

小説や音楽には作成者の色がはっきりと感じられる。私にも色があるのかとかあるとしたらどんな色なのかとか考えてしまう。

 

 

 

演技が下手な俳優をみると安心する。

「あぁ、この人はまだ嘘をつくことに慣れていないのだ」と確信が湧くからである。

その演じ方が好きかどうかは別として、正直な人なんだろうな、と思う。

だから、カメレオン俳優と名がつく俳優の演技をみたとき、感心し、物語に入り込むのと同時に、この俳優のうしろに透けてみえる「本当」を想像してしまう。

 

 

 

ひとりが好きということは、何かを怠っているという気になってしまう。

友達がいる人というのは、複雑で面倒くさい人間関係をつなぎ止め、それを丁寧に保持して友情を築く。これはとてつもない努力が必要である。

私はこの流れを汲むことを放棄している。

友情を築く努力を放棄していること=ひとりが好き、だと思っている。

けれど、私はひとりが好きなのかもしれない。

 

 

 

そして、私はやっぱり自分のことが好きなのだ。

自分のことで悩み、自分に色があるか不安になり、自分の努力の怠りでさえも肯定し、そしてこれからも自分のことで苦しんでいく。

私はわたしのことを考え、私のことで泣き、笑い、心苦しくなり、眠るのだ。

これがいいことなのか、悪いことなのか。今はわからない。

 

 

 

2022.03.28

三賀正気

 

 

都会。

一昨日から都会に足を運んでいる。

もう、ここに住んでから3年近くなるというのに、ここに全然馴染めていない。

人の波に急かされて、自分の生きるパワーか何かが吸い取られている気がする。

全部気のせいだと思うけれど、やっぱり都会に行くとすごく疲れてしまう。

別に何かを成し遂げたわけではなく、ただ単に道を歩いているだけなのに。

だから私は都会に向いていない。

 

ここにきて学んだことといえば、これくらいだろうか。

 

明日はそんな都会で着なれない服を着て、ビシッと決めてこなければいけない。

とても大切なことだから頑張らなくてはいけないけれど、どうしても頑張りたくない気がする。これは甘えかな?

みんなが頑張れていることが何一つ出来ていないような気がする。

将来設計も全然できていなく、思い描くのは現実とあまりにもかけ離れていることばかりだ。

だけど、将来になんのビジョンも思い描かず、生きていくことは何となく寂しく感じる。

それでもすべてを投げたしたくなるのだから、なんて我がままで馬鹿なんだろうと思う。

都会に行ったら、憧れていたあの人や映画の中の台詞のように「人がたくさんいるのが落ち着くんですよね。」なんてほざけるようになると思っていたけれど、全然そんなことはなく、むしろ毎日何かと戦って、落ち着くどころか視線を彷徨わせている。

結局、私はあの人にはなれないし、あの人の様な感受性を持ち合わせていないのだ。

 

明日のことを思うと今日は眠れないかもしれない。

どうだろう。案外スヤスヤ眠っていたりして。

足を動かして、表情筋を動かしていたらあっという間だ。時間は勝手に過ぎていくんだから。

 

 

2022.03.24

三賀正気

 

彼女と、彼女の言葉と、悲しみ。

 

心の悲しみ。

それは精神的にでもあり、もしくは身体的な症状に現れる時、わたしは彼女の言葉を必要としていた。

彼女の言葉には、生後3か月くらいの子犬がよちよち歩く様をみているときのように、胸をあたたかくさせる何かがあった。

それは、彼女が自分に素直で、真面目であったから紡ぎだせた言葉だった。

 

彼女は、途方もなく暗い道をマッチから放出される、灯りとはいえない火の塊一つに縋りながら、火の塊が消えないよう片方の手で塊を守りながら、下を向きながら慎重に歩き、マッチが短くなり手に熱さが伝わる寸前までしっかり持って、だけどやがて耐え切れず手を放し、暗闇に自分が同化しないように震える手でもう一度マッチに火の塊を宿すような、そんな作業を繰り返していくことでようやく進むことができるような、ひとりの人間であった。彼女の言葉には苦しい毎日を生き抜くことの辛さが滲み出ていた。

だからこそ、彼女の言葉は人々を共感させ、奮い立たせるメッセージが(彼女が意図せずとも)、こもっていた。

 

わたしも類に紛れず、彼女の言葉を必要としていたから、彼女と出会い、彼女が吐き出す思いに寄りかかり、そのたびに安堵し、安心して眠りについた。

わたしだけではない。

そう思えた。

 

わたしは自分の悲しみに気が付いてしまった時、なんて愚かで情けないんだろうと自虐の思いに耽る。

この世界には、とか、日本には、とか規模を拡大して自分の悩みを飛躍させ、比較し、わたし以上に苦しい環境に置かれている人を思ってしまう。

この感情は、とてもズルい。

これはわたしの悲しみに対する暴力だ。

わたしはわたしに対して、わたしの素直な感情を殴り続けている。

 

その点、彼女の言葉はとてもクリアだった。

彼女が悲しみを語る時、それは誰の事も考えていない。

彼女の悲しみを彼女が一番に寄り添い、言葉として的確に放出することができた。

 

わたしは自分の感情を素直に声や文章にすることは容易ではないように感じているから、彼女のそれがかなり自然となされていることにいつも驚き、尊敬し、だが共感し、もたれかかってしまうのである。

 

 

しかし、それは永遠であった。

 

彼女は自分に素直で正直な分、自分を覆いつくす悲しみにしか興味がないように感じ取れた。

というか、悲しみしか叙述していなかった。

彼女はいつも悲しみの渦の中にいて、それをみていると、みているこっちまで悲しみの渦に巻き込まれていく。

だから、彼女の周りにはいつも悲しみを纏った人たちがたかり、わたしも「悲しみを纏った人」となる。

悲しみが中心となり、悲しみを共有し、悲しみを抱えて、悲しみが安心材料となって、皆眠る。彼女を除いて。

 

 

彼女は今、何をしているのだろう。

そして何を思い、悲しみとどう向き合っているのだろう。

いつまで、悲しみを語っていくのだろう。

 

 

 

 

2022.03.13 

三賀正気