みんなそれぞれ考えている。
今日は、映画『アジョシ』(2010)をみた。
私はやはりノアール映画が好きだ、と思った。
でも、やっぱりいつまでも頭から離れないのは『コインロッカーの女』(2015)と『イノセント・ガーデン』(2013)だ。哀愁を纏った主人公にはなぜか憧れがある。
最近、自分らしさを表現することがどれだけ難しいのか実感している。
小説や音楽には作成者の色がはっきりと感じられる。私にも色があるのかとかあるとしたらどんな色なのかとか考えてしまう。
演技が下手な俳優をみると安心する。
「あぁ、この人はまだ嘘をつくことに慣れていないのだ」と確信が湧くからである。
その演じ方が好きかどうかは別として、正直な人なんだろうな、と思う。
だから、カメレオン俳優と名がつく俳優の演技をみたとき、感心し、物語に入り込むのと同時に、この俳優のうしろに透けてみえる「本当」を想像してしまう。
ひとりが好きということは、何かを怠っているという気になってしまう。
友達がいる人というのは、複雑で面倒くさい人間関係をつなぎ止め、それを丁寧に保持して友情を築く。これはとてつもない努力が必要である。
私はこの流れを汲むことを放棄している。
友情を築く努力を放棄していること=ひとりが好き、だと思っている。
けれど、私はひとりが好きなのかもしれない。
そして、私はやっぱり自分のことが好きなのだ。
自分のことで悩み、自分に色があるか不安になり、自分の努力の怠りでさえも肯定し、そしてこれからも自分のことで苦しんでいく。
私はわたしのことを考え、私のことで泣き、笑い、心苦しくなり、眠るのだ。
これがいいことなのか、悪いことなのか。今はわからない。
2022.03.28
三賀正気